希少!高知城とラーメン

御朱印巡り

こんにちは!NICOです!

今回も引き続き高知。

まずは高知城。

高知城

高知駅から徒歩で30分、路面電車を使って20分。高知県庁の隣と、賑わいのある街にある高知城。

天気は生憎の雨模様。駆け足での見学となりました。

歴史など

そんな高知城は江戸時代の1601年に土佐国を与えられた山内氏が大高坂山に新しく城を建てた時から400年以上もの歴史を有するとされています。関ケ原の戦いが1600年なので直後ですね。

しかし、これ以前も大高坂山に大高坂山城というものがあったらしく、それを踏まえるとさらに歴史深いのではないでしょうか。

江戸以前、南北朝時代・安土桃山時代の大高坂山城

山内氏が土佐に入る前は長曾我部元親ちょうそかべもとちかが土佐の国主でした。一時はその長曾我部元親も大高坂山城を居城として利用していたそうです。

さらにさかのぼると、南北朝時代に大高坂山の大高坂氏(南朝方)の大高坂山城として、元々城はあったそうなのですが、戦に破れ落城した以降の文献がないようです。

そこで、一度廃城になった跡地を利用しただけなのか、そのまま残ってた大高坂城をそのまま長宗我部元親が本拠とし利用していたのかどうかは定かではないようなのですが、安土桃山時代の1587年に長曾我部元親が築城または改築という形で入った城が高知城と同じ場所の大高坂山城みたいです。

 

その頃の時代背景としては長曾我部元親が一時は四国を統一したものの、豊臣秀吉に降伏し、土佐の一国のみを配分されている時代、豊臣秀吉の九州平定の遠征から帰ってきた長曾我部元親が再び築いた城。

前々回、桂浜のお話で長曾我部元親が同じ頃に浦戸城を居城とするために移ったとの話もしましたが、それは1591年と高知城を建ててからわずか4年後。

桂浜! 龍馬像と水族館と鰹のタタキ – NICO先生(仮)のおでかけ御朱印巡り (nico-gosyuin.com)

江戸時代の資料によると、大高坂山城の水はけが悪かったとされていますが、あくまで江戸時代の資料。当時の資料とはまた別。浦戸城が規模の小さい城であることや、浦戸城に移った後も大高坂山城周辺の整備がされていた可能性まであることから、浦戸城は朝鮮出兵時の一時的な居城との見解もあるようです。海運を考えた結果浦戸を選んだってこと!?

珍しくちょっと石垣にも注目。

水はけが悪いとされていますが、高知城の石垣は石を加工せず、そのままの姿で積み上げる野面積みが採用されており、特徴として、相手から登りやすい欠点があるかわりに水はけがいい性質を持っているのでそれなりの対策はされていたのでしょうか?これをもってしてもうんざりするほどの水はけが悪かったのか…

それとも、この石垣は安土桃山時代の技術ではなく、江戸時代に山内氏が入ってから取られた対策なのでしょうか?

って言うか、水はけって言うより、川と川に挟まれた地形で水害が多かったって言う方が適してますよね!?水はけってちょっと軽いイメージに変換されてしまいますやんか。

話を戻して江戸時代 高知城としての歴史

そして、話を戻して1601年。長曾我部氏は関ケ原にて西軍についていたため改易。

土佐は山内氏が任されることになります。

山内氏も最初は浦戸城に入ったそうなのですが、城下町を開くには小さすぎるということで大高坂山に新しく城を建てました。

新しく、と強調していますが、工事にあたって山の形から治水事業まで超大規模な土地の作り替えと言ってもいいほどの工事が行なわれていたようなので、新しくと言った方がいいかなと。

さっきの石垣の話について。写真のような高さのある石垣の技術は江戸時代のものらしいのですが、長曾我部時代の石垣も発掘されており、その石垣も野面積みであることは確認されています。個人としては長曾我部時代も水はけ対策はされていたのですが、技術と手をつける規模が間に合ってなかったという見方をしておきます。

そして、1603年に一旦、本丸と二の丸が完成し、山内一豊が浦戸から入場。

その際に地名を大高坂山から河内こうち山と変更したようです。

もちろんこれが現在の高知の由来にもなりますね。間に高智になった時もあったみたい。

というわけで、高知城の歴史は江戸時代の山内氏からの歴史とされていることにも納得ですね。

一時は四国を統一した大大名長曾我部の名がちらついてもそれはあくまで前身の話と。

 

そして現在見られる高知城の姿は1727年の城下町の大火事により一度失われたものを1729年から再建したものになります。

明治時代の廃城令により、現存している建造物以外の全て、二の丸三の丸御殿などが取り払われましたが、日本で唯一、江戸時代の本丸御殿が現存している貴重な城となっています!

もちろん天守も江戸時代のものが現存しているのですが、現存天守が残っている城も日本で十二城だけ。

追手門も現存のようで、天守と追手門が現存しているのも全国で三ヶ所しかないそうです!

かなり希少…

高知城 公式ホームページ | Kochi Castle Official Website (kochipark.jp)

実際高知城行ってみて撮った写真など

とりあえずもう一回この写真。笑

素人目で見ても確かに天守だけじゃないことはなんとなくわかりますね。

御殿の中の雰囲気。

城主が住んでいたというわけではなく、執務であったり誰かを迎える時に使われていたようです。

天守の雰囲気。

高知の景色。

この日の晩にはプロジェクションマッピングが開催されていたようですが、時間の都合は合いませんでした。

追手門

現存の追手門。

左の石柱と一緒に写すことを意識して実は追手門と天守が一緒に写すアングルに気づいていませんでした…

雨で走りながら本丸まで登って行ったくらいやし..

追手門むかいの歴史博物館からもいい感じの写真が撮れるみたいです!

板垣退助像

写真でも雨が確認できますね。

 

じゃなくて、この髭は!!!

板垣退助!!

おふざけなしでも板垣退助は髭で認識してるよね…してるよね!?

明治時代、議会の開設などを求め、国民が政治に参加する権利の確立を目指した自由民権運動の主導者で、現在の与党である自由民主党の源流である愛国公党の創始者でもあり、国会を創った男まで言われるほどの明治時代の大政治家の板垣退助。

そんな板垣退助の像がなぜ?とは言いづらいな!?大政治家ならどこに像建てられててもおかしくないやろ!!

どこに像が建てられててもおかしくない人物なのですが、土地としても縁がしっかりありました。

板垣退助は土佐出身。邸宅跡や墓までも高知にあるほど縁があることの銅像でした。

これまた天守と撮れたやろ!!?当時の自分よ…

 

高知城おしまい。

 

このラーメン屋は関西にもあるぞ! ラーメンチョンマゲ

高知城にも近い、高知の繁華街にあるこのお店。

ラーメンチョンマゲ高知本店。

高知市に二店舗、兵庫の神戸三宮に一店舗、大坂の梅田と天六に二店舗、奈良にもチョンマゲじゃないけど系列店があるお店。関西の方が展開されてる。

関西で出会ったこのお店。お気に入りすぎて本店の高知も行きたかったんです。

ラーメンも種類が多くてどれも美味しいのですが、なによりこの玉子焼きめし。

甘いくて美味しい焼きめし。そもそも焼きめしと言うものなのかわからんくなるけど美味しいんです。

味変してもまたおいしい。本店に行けて良かったです。

関西にも結構あるので行ってみてください。

私が始めて行ったのは神戸の元町だったんですけどそっちはなくなってますね。そして知らないうちに大坂梅田にできてたみたい。

 

 

おしまい。

以上高知城とラーメンでした!

高知城以外と興味が乗ってしまって書きすぎてしまいました…笑

四国の旅は移動中なぜかずっと不調だったので、その分調べて補いましょう。笑

次回は高知県ラスト。

鍾乳洞。

ほとんど写真になりそうね。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

また次回。

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